○「夢の種が、咲く」 連載目次
・昨年10月から今年4月まで毎週水曜に、西日本新聞朝刊で、福岡県農業大学校を舞台にした連載「夢の種をまく」を行い好評でした。
・そこで、今回は農業大学校の卒業生が、担い手として、あるいは指導員として、どんな想いをもって農業現場で活躍しているのかをレポートしました。
::01
杉勝也(吉井町:養豚・ハム工房)
/「農業はカッコイイぜ!!」
原鶴温泉の近くにある筑後川の「山田堰」。筑後川いっぱいを堰き止める石堰という独特の築造法で、海外からも視察者が絶えない有名なものです。その目の前の川の中州に、140頭の母豚のいる豚舎とハム工房が建っています。そこが、平成3年度に畜産コースを卒業した杉さんの仕事場です。今でこそ、養豚を天職のように語る杉さんですが、「長男だから家を継ぐのは当然と思われていましたが、それが嫌で嫌で逃げ回っていました」。卒業しても、就農せずに薬品メーカーに就職・・と抵抗は続きました。しかし、23歳の時に農大の恩師に再会したことがきっかけで、「自分が育てた豚肉を使って最高のハムを作りたい!」と進路が定まりました。紆余曲折しながら、今では養豚とハム工房「吉井手造りハム リバーワイルド・ハム・ファクトリー」の経営を行っています。
―ハム造りは、どこで習ったの?
杉 まず糸島のハム工房に押しかけて4か月間、無休でお手伝いしながら教えていただきました。その後は、評判の高い全国のハム工房を次々に訪ね、無給で働かせてもらいながら、製造・販売について修行する旅を3年続けました。
―3年も!そして、帰ってきてハムを作り始めた?
杉 いえ、まだ修行の途中だったのですが、父が病気で倒れたので呼び戻されたのです。それから、ハム造りどころではなく、とにかく養豚の経営に明け暮れる毎日が4年続きました。
―逃げ回れなくなって、落ち着くところへ落ち着いた・・
杉 ですが、養豚にあまり興味がわかなくて、出荷成績も悪かったです。自分の中では「不毛の4年間」といってます(笑)―そこをどう乗り越えたの?
杉 農大の恩師が、転勤で地元の普及センター長になられて、「おい、ハム造りはどうした?」と声をかけてくれたんです。それがきっかけで、具体的にハム工房づくりが始動しました。
―でも、結構資金が必要だろ?
杉 恩師が国の補助制度など紹介してくれて、普及センターの担当者と生産、販売計画を作り、いよいよ夢がかなうと意気揚々となっていたのです。しかし、周りの養豚仲間からは「ハム作ってどうする?そんなの絶対儲からんぞ。やめとけ!」と反対の嵐でした。
―それでも決行したんだ
杉 最初の2年位は大変でした。養豚の作業が終わって、夜の8時ころからハム造り。終わるのが夜中で、翌朝はまた養豚の作業の連続。作ってもなかなか売れない・・。乗り切れたのは女房のおかげです。よく働いてくれました!
―3年目から売れ出した?
杉 はい、「美味しかったから、また買いに来ました」というお客さんが増えてきて。それから、さらにハム造りの本場ドイツに勉強に行きたくて問い合わせたところ、短期研修はハム・ソーセージの国際大会に出品することが条件でした。そこで、香辛料のメーカーと協力し合って出品したところ、なんとベーコンが金賞を取ってびっくり!それから、ハムの販売の引き合いも多くなり、順調です。
―いやはや、いろんな方たちとの出会いや偶然で、今があるんだねえ。
杉 ハム造りのおかげで、本業の養豚にも興味が湧いてきました。何といっても、ハムの材料を自分で作っているのですから。やはり素材がハムの良しあしを決めると実感しています。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
杉 昔は農業という職業に引け目を感じていました。しかし、農業の「産みだす」力は、実にすごいこと。それを職業としてみんなの役に立っていることを実感している今、自信をもってこう言えます。「農業はカッコイイぜ!!」
(福岡県農業大学校校長)
松木慎介(京都郡みやこ町(ナシ、モモ、ブドウ他)
/「従業員満足度の高い観光農園を目指して」
松木さんの祖父は、北九州市でイチジクを中心に1haの農地を経営していたそうです。しかし、もっと大規模な果樹経営をやろうと決心して、この地(当時は京都郡犀川町)に35年前に移住しました。その後、叔父さん、そして父と、少しずつ広げていき、現在では、ナシ1.2ha、モモ1.2ha、ブドウ1ha、イチジク15a。冬場以外は、いつでも収穫体験ができる観光農園となっています。また、18年前からフルーツ工房「えふ」を併設しました。穫れたての果物をケーキなど食べられるレストランです。
さて、4代目となる彼は、平成14年度に「果樹コース」を卒業したのですが、実はコンピュータ関係を勉強したくて、工業高校に通っていたのです・・
―農業はあまり継ぎたくなかったの?
松 小さい頃は継ごうとは思っていなかったです。しかし、高校卒業を前にして、松木果樹園で観光客の皆さんと、楽しそうに農業やっている父や従業員の姿を見て、ここで終わらせてはいけないな・・と長男としての自覚が芽生えたのかもしれません。
―それで、農大に入学したんだ。農大はどうだった?
松 毎日がとても楽しかったです。特に、農業のことを話せる友達がたくさんできたことが一番の財産。今でも、同級生でよく集まってますよ。
―卒業後は、すぐに家に戻ったの?
松 いえ、山梨県で同じように果樹の観光農園をやっているところで2年間研修をしてきました。うちと違って、地域を丸ごと観光農園にして運営していたので、また別の視点で経営感覚を学べました。
―そして、山梨から戻って実際にやり始めて、難しさを感じるところは?
松 観光農園なので、お客さんが来た時に果物がないでは困ります。そのためには、安定的に生産できることが肝心です。でも、最近の異常気象には対応に困っています。品目や品種の構成を変えたり、栽培方法を工夫したりはしていますが、なかなか気候が読めないのが難しいですね。
―反対に、よかったなと感じるのは?
松 観光農園なので、直接食べられる方たちの生の声を聴くことができるので、励まされたり、感動したり・・。そこが、市場出荷では感じることができない強みなんだろうと思っています。
―フルーツ工房「えふ」は、とっても繁盛しているようだね。平日でもこんなにお客さんが来られていて・・
松 でも、黒字になったのはこの2,3年ですよ。果物狩りだけで帰すのはもったいないと思って18年前に併設しているのですが、最初はお客様が来なくて・・。それでも気長に営業を続けていると、SNSなどで次第に知名度が上がってきました。というのも、うちの果実は減農薬・完熟にこだわり他の産地の価格に比べればかなり高いのですが、そのスイーツが食べられると評判になって、徐々にお客様が増えてきたからだと思います。
―今後はどんな経営を目指しますか?
松 今年の冬からイチゴを新規に始め、果実のない冬場にもお客様に収穫体験ができる体制を作っていきます。また、私が社長になったら、うちの農園の経営理念をきちんと作ろうと思っています。経営が大きくなるほど雇用が増えますが、私の経営方針が従業員の心に届かなければ、農園はバラバラで魅力のないものになります。そのため、従業員が生きがいを感じるような経営を目指していきたいです。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
松 まずは、チャレンジしてみろ!実際にやらなきゃわからんぞ。農業を職業にしたいと思うのなら、まずは農業の現場に飛び込んで体験すること。それで、自分に合うと思えばとことん頑張ってみればいい。合わないと思えばやめておけばいい。うじうじ考えるだけではなにも進まないよ。
(福岡県農業大学校校長)
平田侑司・憲司(筑前町:米・麦・大豆、アスパラ)
/「これからは農業ばい!」
ここは、朝倉郡筑前町。農業大学校のある筑紫野市から、車で20分。見渡す限り、水稲と大豆の田んぼが広がっています。この町では、兄弟で農大を卒業して一緒に農業をやっている平田侑司さん(27)・憲司(24)さんががんばっています。米8ha、大豆5haで、その裏作に麦13ha。そして、アスパラガスを20a作っています。「平田ファーム」の経営の特徴は、直売中心。大豆、麦はさすがにJAで共販ですが、お米やアスパラガスは、近隣の直売所でほぼすべてを販売しているというのですから驚きです。経営の実権は、まだお父さんが握っていますが、ゆくゆくは兄弟で経営していきたいと夢を語ってくれました。
―8haのお米を直売するなんてすごいね。
侑 直売所は15か所に出していて、食用は5ha分です。コシヒカリや夢つくしなど4品種。米袋には父と私たち兄弟の似顔絵を入れて売っているので、気に入った方はそれを見てずっと買ってくれているようです。
―残りの3ha分は?
侑 酒米の山田錦などを作っています。あの有名になったお酒「獺祭(だっさい)」の蔵元である旭酒造さんとご縁ができて、地元の方たちと一緒に出しています。
―直売中心というのは、お父さんの経営方針?
侑 父は会社勤めを40歳くらいで辞めて農業を継いだので、自立した経営にするため必死に考えたんだと思います。その中で直売に活路を見出した・・
―直売の面白さや大変さは感じてる?
侑 直売は消費者の評価が正直に販売額に出てくるので面白いですし、反対に怖いですね。アスパラも出しているけど、買ってもらったときに悪いものを出していると、2度と買ってもらえない。そんな緊張感があります。
―「平田ファーム」での2人の立場は?
侑 まだ従業員で、毎月給料を父からもらっています。私は結婚して子どももいるので、弟より少しは多目にもらっていますけど(笑)
憲 部門を分けているのでなく、農作業は一緒にやっています。
侑 父も60歳で引退すると宣言しているので、今少しずつ経営の勉強もして
います。
― 将来はどんな経営をしたい?
侑 やっぱり、米・大豆・麦中心かな。近所の人達が次々に農業をやめていくので、その田んぼを守っていかなくちゃいけないですから。
憲 私の下にも弟がいるので、3人で経営できたらいいなあ。
―ところで、農業大学校の思い出を紹介して!
侑 私は総合コースだったので、同じ敷地内にある試験場で1年間実習ができたのがよかったです。試験場の先生たちとも人脈ができたし。
憲 私は野菜コースだったので、やっぱり農家留学研修がよかった!これが本物の農家の実践力なんだと、毎日が感動でしたもの。それと高校では農業の話なんてする人もなかったんですが、農大は農業の話ばっかり。高校のときよりも友達がたくさんできました。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
侑 これからは農業がチャンス!これだけ農業をする人が減っている中で、若者は絶対可愛がられるぞ。なるべく、若いうちからチャレンジしなさい!
憲 農業は自分がやった分だけ返って来るところがいいところ。それにこんなに人に喜ばれる仕事はない。農業では食べていけん・・なんていわれるけど、やり方次第。みんなもやってみらんね!
(福岡県農業大学校校長)
大井徳之(古賀市:米・ミカン・ブロッコリー・スイートコーン)
/「農業は可能性でいっぱいだ!」
古賀市にある農産物直売所「コスモス広場」の近くに青柳という集落があります。古賀市といえば、福岡市のベッドタウンとして都会的なイメージがありますが、青柳地区は純農村地域で農業後継者も地元にたくさん残っています。しかも、農業大学校の卒業生が多い集落でもあります。きっと、卒業生の先輩たちが地元で頑張っているので、うちの子も・・と入学を勧めてくれているのだと思います。さて、この地域は昔からミカン栽培が中心だったのですが、平成14年度に野菜コースを卒業した大井君は、そこからの脱皮を目指してきました。
―農大卒業後はトマトを始めたと聞いていたんだけど・・
大 はい、卒業してトマト農家に1年間研修に行って、ハウスも20a建てて始めたんですが、どうしてもミカンと作業が競合してしまって・・
―ミカンはどれくらい作ってるの?
大 ちょっと離れているのですが、宗像市に4ha、家の近くにデコポンのハウスが40a。父と祖父がいますが、どうしても人手が足りなくなってトマトはあきらめました。
―トマトは収穫が忙しいからねえ。それで、今はミカンだけ?
大 いえ、米を5ha、ブロッコリーとケールを合わせて1ha、スイートコーンを40aやっています。
―機械倉庫には、立派なコンバインとトラクターもあるね。
大 最近は米作りを辞める人が多くなったので、地域の田んぼを荒らさないためにも、まだまだ引き受けていこうと思っています。できたお米はなるべく直売で売るように努力しています。
―スイートコーンも面白そうだね。
大 直売所でとても人気があって、飛ぶように売れます。ただ、その準備が大変で、早朝の4時から収穫作業を始めて、8時には直売所に出荷します。トウモロコシを出せる期間は限られているので、毎朝一家総出で目の回るような忙しさです。でも、お客さんに「美味しかったわ!」と言われると、努力が報われた感じでほんとにうれしいです。
―ブロッコリーは、去年の作付け時期は雨が多くて、なかなか作付けできなくてどこも困っていたけど、どうだった?
大 いやー、昨年はブロッコリーが高く売れて申し訳ないくらいでした(笑)
ケールは農協から苗が配給されるので、それに合わせて早め早めに作業していたので、ブロッコリーも雨前に作付けできたんです。それで、一般のブロッコリーがまだ収穫できない時期に出すことができて、通常の2~3倍の単価で売れました。
―たまにはいいこともなくっちゃねえ!今後はどんな経営をしていきたい?
大 来年、宗像に作っているミカンを辞めなくてはいけなくなったので、イチゴを始めようと思っています。夏場は米や露地野菜、冬場はイチゴとハウスデコポンを経営の柱にしていければと考えています。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
大 農業は、可能性がいっぱいです。自分次第で、いろいろな経営ができるのが魅力ですよね。それと、大切なのは仲間。助け合える仲間がたくさんいることはほんとに心強いです。農大の仲間は一生の宝です!
(福岡県農業大学校校長)
黒沼清寿(三潴郡大木町:アスパラガス・イチゴ・イチジク)
/「一度きりの人生だから・・」
黒沼くんの両親は東京生まれの東京育ち。ただし、転勤が多く、彼が生まれたところは福岡県。それから一時大阪に転勤しましたが、再び福岡へ戻り、小学校から高校までここで育ちました。だから、彼曰く「私は福岡生まれの福岡育ちです」。
その後、大学は両親の母校である東京農業大学に入学し、4年間農業経営の勉強をしました。その後は、東京で8年間塾の講師として、それなりにやりがいをもって働いていました。ただ、30歳となり、一生この仕事で満足なのか・・と自問自答する中で、一度きりの人生にふさわしい仕事として選んだのが「農業」でした。しかし、農業経営は学んでいたとはいえ、実践する技術はほぼゼロ。そこで、生まれ育った福岡県の農業大学校で農業技術を一から学びなおそうと決めました。
―黒沼さんは、平成25年度の卒業なんだね。農大の卒業生を4人も雇用してくれているので、もう10年位のキャリアだと思ってたよ。
黒 いえ、農業を始めてまだ5年目なんです。東京農大で農業経営についてはしっかり学んできていたので、それが今になって役に立っています。
―今の経営は?
黒 アスパラガスが34a、イチゴが20a、イチジクが10aです。今でこそ、こんなに作ることができていますが、この大木町に決まるまでは大変でした。
―農家でないと、まずは農地探しが大変だからね。
黒 当時の担任の先生と県内の普及センターを全部回りましたが、なかなか貸してくれる農地はありませんでした。しかし、卒業間近になって、大木町から「アスパラに手が回らなくなって、管理する人を探している農家がいる」という情報があったので、飛びつきました。ただ、一人で経営できる面積ではなかったので、1年先輩で(といっても年下ですが)これは!という人材がいたので、スカウトして従業員になってもらいました。
―おお、1年目から雇用経営だったんだ。
黒 一つ扉が開くと、次々に「これも作ってみないか?」という情報が集まってきました。その年の10月には「イチジクの面倒が見れなくなったので、引き継いでくれないか?」。翌年の6月にはJAのリース事業で、「イチゴの観光農園を道の駅の前でやってみないか?」。それで従業員が次々に必要となり、つながりの深い農大生を雇うことにしたんです。
―でもまだ経験も浅いのに、これだけ経営していくのは大変だろ?
黒 苦労しているのは時間の管理ですね。私は経営者としての仕事に専念したいのですが、生産・販売を任せる人材をまだ育成中で、そちらにも時間がとられます。なので、私の休みはほぼゼロ。嫁さんから、時々クレームが出ています。
― そのお嫁さんも農大生だって?
黒 はい、農大には何から何までお世話になっています(笑)。
― まだまだこれからも苦労が続くね。
黒 でも、好きなことをやらせてもらっているので、大変だけどやりがいがいっぱいです。会社に勤めていれば、こんなに自由に仕事はできませんから。
― これからどんな経営を目指しますか?
黒 アスパラガスの管理人の契約があと1年なので、今後はイチゴの観光農園を拡大していこうと思っています。幸い、イチゴハウスは道の駅の真ん前。立地にもとても恵まれているので、ハウスを増やしてしっかりイチゴを作って、お客様に満足していただこうと思っています。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
黒 まず、農大の後輩たちへ。農大で学べることが、どれだけ恵まれているかを自覚すれば、この2年間を君の人生の中で貴重な時間にできる。将来どんな人生を目指すのか意識して、今しかできないことをどん欲に学んでください。
そして、農業を目指している方たちへ。とりあえず、農業現場に1歩踏み出してみてください。インターンシップなどで苦労を体験して、それでも農業をやりたいと思うなら、計画的にスタートすればいいと思います。その一つのツールとして農大もあります。
(福岡県農業大学校校長)
百富(ももとみ)竜(飯塚市:花(マトリカリア等))
/「売れるものを作ればいいじゃない!」
百富さんは父母の故郷が飯塚市だったのですが、父親の仕事の関係でずっと東京で生まれ育ちました。農業とはまったく無縁の暮らしをしていた彼が憧れていたのがモノづくり。高卒後、色々な職業を体験しながら、一生をかける仕事について考えていた時に、出てきた答えが「農業をやろう!」ということでした。そこで、祖父母が農業をやっていた福岡県にある農業大学校で、まずは農業の基礎を学ぼうと入学しました。まだ何の品目をやるべきかがわからなかったので、色んな品目について学べる「総合コース」に入り、平成18年度に卒業。農大時代の実習や先進農家の話を聞く中から、農家でも育種をして多くの品種を生みだしている「トルコギキョウ」に彼の職人気質がビビッと来ました。それで卒業後は、隣の嘉麻市でトルコギキョウでは有名な末継花園で3年間研修して、独立を目指すことになるのですが・・
―末継さんの農園での研修は厳しかったと聞いているけど・・?
百 末継さんは、1年間働きぶりを見て、農業に不向きだと感じたらやめさせるといわれていたので、必死にがんばりました。1年経った時、ギリギリの点数だったそうですが、なんとか継続させてもらって、3年目にはなんとか合格点をもらえました。
―それから独立したの?
百 はい、近くの空きハウスを紹介していただき、末継さんの監視のもと、初めて生産から販売まで責任をもってやり始めました。「のれん分け」のような独立でしたので、末継さんのブランドを汚さないように、必死の2年間でした!
―そして5年間の修行の末、飯塚市に戻ってきたんだ
百 はい、祖母の田んぼが5反ほどありましたので、いよいよ本当の独立です。
―農地があってラッキーだけど、ハウスなど資金がかなり必要だっただろ?
百 農地の移譲や資金調達のことも考えて、祖母の養子になり、姓も本松から百富に変わったんです。ハウスも建ち、さあ末継さん直伝の栽培技術で、一流のトルコギキョウを作るぞ!と意気込んで始めたのですが・・
―そういえば、ハウスにトルコギキョウがない・・!
百 土壌条件や気象条件が変わると、思い通りにトルコギキョウができないという現実を突きつけられました。でも、この農地から逃げ出すことはできない。では、どうすれば農業を続けていくことができるか・・ほんとに悩みました。
―そこをどう乗り越えたの?
百 当時、若手の花農家で「筑豊フラワーコミュニティ」という研究会を作り、花屋さんとの交流をやっていました。どんな花が消費者の皆さんに売れているのかという生の情報をいただくためでした。そのとき「売れる花を作ればいいじゃない」と言われたのが、私の転換点になりました。
―おお、トルコにこだわるな・・と。
百 それから、売れる花を作る・・という経営方針で栽培をやっています。しかし、栽培方法がわからない花もあるので全国から情報を集めて手探りでやっている状態ですが、手ごたえは感じています。例えば、うちの経営の柱の一つである「マトリカリア」。夏白菊の一種ですが、全国では千葉県と私しか作っていない作りにくい花です。でも、添え花として年中需要がある花屋さんには人気の品種です。
―へえ、花屋さんが花農家になったみたいな経営だね。
百 これも私の奥さんのおかげです。彼女は、花屋さんでしたから。
―もしかして、花屋さんとの交流会で射止めたの?
百 はい、末継さんにしても、うちの奥さんにしても、人との巡り合わせにとても感謝しています。今年は子どもも生まれて、ますます責任を感じています。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
百 とにかく、農業は続けていくことに意味があります。そのためには、農業だけの考えでは乗り越えられないと感じています。例えば、色々な職業を経験することも大切なことですし、なにより人とのつながりを大切にすることが大きな財産になると思います。その中で、変えないといけないと思ったことは勇気をもって変えてみることが未来を切り拓いていきます!
(福岡県農業大学校校長)
高野千鶴(小郡市:多肉植物)
/「農大は、人との出会いを連れてくる!」
農業大学校には、主に高校を卒業した生徒が入学する「養成科(2年制)」と、社会人が即就農を目指して入学する「研修科(1年制)」があります。ところが、年に数名は、養成科に大卒や社会人が入学してきます。彼らは、ほかの学生よりもちょっとお兄さんやお姉さんになりますが、みんな心はピュアです。「農業をやりたい!」という気持ちが人一倍強いのです。はてさて、彼らが卒業後にどんな夢の種を咲かせているか、平成25年度に養成科の花きコースを卒業した高野千鶴さんを訪ねてみました。彼女は、4年制の大学を卒業した後、就職して13年。「やっぱり、農業がしたい!」と会社を辞めて農大に入学してきました。
―ずいぶんと遠回りしてきた感じがするけど、農大に入ったきっかけは?
高 昔から漠然と「農業がしたい」という気持ちがありました。でも知識も何もないのに、どこからどう勉強したらいいものかわからずに時間ばかりが過ぎていました。ある日、ネットで「農業を始める勉強をしたい」と質問したら、「各県に農業大学校があります」って!農業大学校の存在を全然知らなくて、すぐ福岡県はどこにあるのか調べました。なんと、自宅から車で20分のところに農大がありました!
―おお、そんなに近くだった!
高 近くだったけど、みんなとは年齢も離れているし、仲良くなるためには絶対「寮」に入らなければ・・と思って、寮に入りました。うれしいことにみんなも受け入れてくれて、とっても楽しかったなあ!
―でも、サボテンなどの多肉植物は農大にはなかったんじゃない?
高 花コースに入ったのは、花が好きだったからで、多肉植物をするなんて思ってもいなかったんです。
―じゃあ、なぜ多肉植物を始めるようになったの?
高 当時、花担当の樋口先生が、「女性が一人で花栽培を始めるには、労力や機械があまり必要なくて、女性が買いたくなるようなもの・・例えば多肉植物なんてどう?広川町に頑張ってる人がいるから行ってみる?」と言われて。
―それが縁で、卒業後もそこで働いたんだ・・
高 はい、働きながら2年間ガッツリ学びました。栽培方法や特にアレンジ教室を開催して販売していくやり方を勉強したんです。今なんとかやれてるのは、そのおかげです。それから、独立を目指してハウスを探したんです。
―それが、このビニルハウスなんだね。
高 これも不思議な縁で・・。おいしいお米が食べたいな・・と思って、1年先輩だった鞍手町の森さんちに行ったとき、なんと彼のお父さんの知り合いに小郡市の花農家がいて、事情を話すととんとん拍子に、空きハウスを使わせてもらえるようになったんです。
―すごい縁だね!ただ、独立して3年目。まだまだってところかな?
高 多肉植物はあまり手はかからないけど、増やしていくのにちょっと時間がかかるんです。今は、バイトしながら、まずは増やすのをメインにやってます。多肉植物のアレンジ教室もやっているので、お呼びがあれば出向いてやっています。
―将来は?
高 これでも150種類はあるんですよ。もっともっと増やして市場から買いに来てくれるような体制にしたいですね。好きなことをやっていると、バイトも苦になりません!
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
高 人との出会いを大切に!今、いろんな方たちとの人脈が私の財産です。例えば、「花族流儀(かぞくりゅうぎ)」という場もいろんな花を作っている方たちと不思議なご縁でつながりました。それもこれも農大での出会いがきっかけです。農業を目指そうと思う人は、とりあえず農大に行ってみましょう!きっと、いい出会いが待っていますよ。
(福岡県農業大学校校長)
鶴田博之(朝倉市:博多万能ねぎ)
/「いろんな方の支えに感謝しながら」
北九州市育ちで農家ではなかった鶴田さん。それが、今では朝倉市で、150aのビニルハウスに博多万能ねぎを作る専業農家です。経営体制は、奥さんと正社員1名、パート2名。さらに、調整作業をお願いする10軒の「ネギ揃えさん」に支えられながら、周年でネギを生産し、JA筑前あさくらに出荷しています。彼は、平成18年度に農大の総合コースを卒業しました。卒業後、どうしても農家になりたくて、母の実家がある朝倉市のネギ農家で半年修行。彼の真摯な姿を見て、ネギ部会や普及指導センターなどが協力してくれたおかげで、晴れて15aのハウスから青ネギ栽培がスタートしました。
―農家でもないのに、なぜ農大に?
鶴 高校のときから、農業をやりたいと思っていたので、夢を実現するには農大しかないと思っていました。普通高校でしたが、幸い先輩の中に農大に行かれた方もいたので、進路の先生も農大を知ってたようです。
―農大に来てよかったことは?
鶴 総合コースだったので、農業試験場での1年間の専攻実習がよかったですねえ。野菜部のネギ育種の研究室にお世話になって、卒論のテーマは青ネギの品種比較でした。最新の品種を材料にしていたし、試験場の先生にもつながりができて、就農してからもいろいろと支えていただいてます。それとなにより、県内各地に農業仲間がたくさんできたことですね。
―それにしても、大きな家に住んでるねえ。まだ家を建てられるほど儲かってはないんじゃない?
鶴 実は、結婚する前までは、すごいボロ屋に住んでいまして・・。「こんな家だと嫁さんに逃げられるばい!」と脅されて、急いで家を探しました。縁あって、高齢でネギ栽培を辞める方が、倉庫、冷蔵庫などネギ栽培のすべての機械類も込みで家を譲ってくださるという有難いお話がありまして、購入しました。
―いやー、それはすごい!
鶴 おかげさまで、ネギの規模拡大もできましたし、ほんとについてます。
―でも、150aの経営は大変だろ?
鶴 特に、今は夏場なのできついですね。暑い時間帯を避けるために、朝4時から収穫を始めて、ネギ洗いして冷蔵庫に入れ終わるのが10時頃。でも、お昼までかかることもしばしば。お昼は休んで、15時頃から昨日収穫したネギを10軒の「ネギ揃えさん」に配って、製品になったネギを集めてJAに出荷し終わるのが20時・・。
―休む暇がなさそうやね。その中でも農業の魅力って何?
鶴 夏は大変ですが、冬場はもっと楽になりますし。やっぱり、農業はきついけど、自分の思い通りやれるところがいいです。自分が知恵を出して、頑張った分だけご褒美がもらえるような・・。
―将来はどんな経営を目指す?
鶴 ネギ以外の品目にも挑戦してみたいですね。そのためにも今の経営をもっと安定させることが一番ですけど。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
鶴 熱意をもって真摯に農業に取り組むこと。そうすれば、誰かがきっと見ていてくれる。そして、周りが君を助けてくれる。私も農家ではなかったけれど、周りのみんなが助けてくださったおかげで今がありますから。
(福岡県農業大学校校長)
石橋(旧姓:中木場)恵美(大川市:イチゴ・米)
/「有機農業を目指して、農大に!」
彼女の故郷は鹿児島県。兼業農家の娘として生まれ、両親がお米作る姿を見ながら、そして田の草取りを手伝いながら育ちました。鹿児島の高校を卒業し、専門学校で洋裁の勉強をして、地元の縫製工場に就職しました。ただ、暑い中ホースを引っ張りながら農薬を散布している両親の苦労を見るにつけ、農家が健康や環境を犠牲にするような今の農業のやり方に違和感を感じていました。
5年間勤めましたが、思いきって会社を辞めて、1年間家の農業を手伝いながら、環境にやさしい農業を学べる場を探しました。九州各県の農業大学校を調べていたら、「!」。福岡県の農大の水田経営コースが、合鴨農法の米作りを実践していることを見つけました。早速、当農大の水田コースに入学し、平成22年度に卒業し、なんと1年先輩(でも年下ですが)のイチゴ農家と結婚。現在、大川市で夫の家族とともに、イチゴ46a、米3haを経営しています。
―今は子育てで大変そうだね。今日連れてきた子は?
中 2番目の子で、1歳半です。実は、お腹には3番目の子がいるんです。
―ほー、それはおめでたい。それじゃあ、今は農業の方は育児休業中かな。
中 合鴨農法で少しだけお米を作らせてもらっています。
―合鴨農法は、農大で習ったの?
中 はい、合鴨農法を実践しているから福岡県の農大を選びました。入学すると、ちょうど合鴨農法の先駆者である古野隆雄さんがカリキュラムのひとつを外部講師として受け持たれていたので、講義の時間は古野さんの真ん前に陣取って受講しました。毎回毎回授業を受けられるのが楽しく夢のようでした!
―それがご縁で、農家留学研修もお世話になったとか・・
中 そうなんです。古野さんの奥様にもよくしていただいて・・。いつも夕飯を「一緒に食べていかんね」とごちそうになっていました。今でも家族ぐるみで仲良くしていただいてます。
―古野さんといえば、県内でも有数の有機農業の担い手だけど、経営についても学んだ?
中 有機はお米だけでなく、すべての野菜も取り組んでいらっしゃたので、お客様に野菜の詰め合わせを毎週配達する仕事もお手伝いしました。外国のメディアもちょうど映画の撮影に来られていたので、私も映画には映っているんですよ。
―それは、タイミングが良かったね。古野さんの有機農業経営のやり方は実践してみた?
中 はい、卒業後、結婚するまでの1年間、鹿児島の実家で一人で古野さんと同じように有機野菜を毎週、直接お客様のところに配達する、顔の見える販売方式で実践しました。そこで感じたのが、一人で有機農業をやることの過酷さです。一人では限界があるな・・としみじみ感じました。
―それでもゆくゆくは環境にやさしい農業をやる夢は捨てていない・・
中 古野さんも今でこそ二人の息子さん夫婦も一緒に有機農業をされているので、経営的にはようやく楽になっているようです。でも、夫婦で始めたころは大変だったとお聞きしました。私たちも今は家のイチゴを拡大したばかりですし、子育ても忙しいので本格的には有機農業には取り組めませんが、子どもたちのためにも少しだけでも続けています。合鴨米も一時は直売していましたが、いいお米だからこそ今では自分の家族でもいただくようにしています。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
中 農大のパンフレットにあるように、「君の夢はここにある」ぞ!
農業は高齢化で担い手不足が問題となっていますが、別の視点で見れば、農業にたくさんの若者が求められる時代になってきたといえます。まずは農大に入って、農業のことを基礎から勉強し、卒業後のビジョンを描きながら、体力を養いつつ一日一日を大切に過ごしてほしいと思います。卒業した今でも、人との縁は続いていますし、あの頃の思い出は大事な宝物です。ぜひ夢を持って学んでください。農業に土づくりが大事なように、農業をやっていくにはベースとなる体と心を育てることが大事です。
(福岡県農業大学校校長)
島田純一(田川市:水耕トマト、稲、麦、大豆)
/「雇用就農で経営者の右腕を目指せ!」
農業を職業にしたい!と思っても、家が農家じゃない人にはなかなかハードルが高いです。まず農地が必要ですし、ある程度の農業機械や施設も必要です。ただ、近年農業法人が増えてきて、雇用という形で農業を始められるようになってきました。このような時代の流れの中で、農業大学校の卒業生で就農する人の内、半分が雇用就農になってきました。
島田君は非農家でしたが、農業をやっていた叔父さんの家でよく手伝ったり、「農業は儲かるぞ。それに食いっぱぐれはないぞ!」と小さい頃からよく聞かされていたので、農業大学校の総合コースに進学し、平成18年度に卒業しました。総合コースでは1年生の時に2週間の普及センター実習があり、彼は地元の田川普及指導センターでお世話になりました。そのときに気に入られたのか(?)、2年生の時の12月にセンター長から突然電話がありました。「田川市内の農業法人で従業員を探してるけど、行ってみない?」それが、彼の人生の転機になりました。今年で、雇用就農して13年目となり、今では社長の右腕として、6名のパートさんに協力してもらいながら働いています。
―今働いている「株式会社レインボーファーム」の経営内容は?
島 水耕トマトが35a。それに、水稲が2ha、作業受託が5ha、大豆が7ha、麦9haです。
―おお、色々作っているね。でも農大のときは総合コース。どれも実習ではやったことがなかったんじゃない?
島 そうなんですよ。しかも1年のときは果樹を専攻していたし、2年のときは試験場実習だったので、トラクターで田んぼを耕耘したこともない・・。この会社に入って1年目は怒られてばっかりで、何回も辞めようと思いました。でも辞めたら負けたことになると思って、一生懸命に働きました。
―なんでもそうだよね。我慢が大事。でも負けそうになる時もある・・
島 そんなときは、農大の友達に愚痴を聞いてもらっていました。苦しさを分かち合える仲間がいて、ほんとに心強く感じました。農大に入った時は、18歳くらいで農業を目指す人がこんなにたくさんいるなんて・・と驚きましたが、一生付き合えるつながりができて感謝してます。
―でも、これだけの経営を社長と二人で切り盛りするのは大変だろ?トマトは1年中忙しい中で、米、麦、大豆!
島 3年目から農業機械を任されるようになりました。田植えや収穫はほとんど私がやっています。ただ、大豆と麦の種まきは社長がやっています。田んぼに合わせて種まきの深さや量の調整が難しいので、まだ任せてもらえません。トマトはベテランのパートさんが多いので、朝指示をしておけばきちんとやってくれます。農薬防除や施肥は自動化されているので、栽培管理は随分と楽です。
―でも、この規模でトマトをほとんど直売で売り切るなんて、社長さんの営業手腕が素晴らしいんだね。
島 大手スーパーや直売所など、安定した販路の開拓は社長のすごいところです。栽培管理だけでなく、社長の経営のやり方についてもっともっと学びたいと思っています。
―もう13年目だけど、独立しようと思ったことはある?
島 思ったことはありますが、新規参入で農業を始めた人たちを見ていましたが、なかなかうまくいった人がいなかったので・・。社長もすでに60歳を越えていますし、あと10年社長のもとで経営を学び、できればこの会社を引き継ぐことができればと思っています。でも、正社員は私だけ。私も右腕になるパートナーが欲しいなあ。
―では、農業を目指す若者にメッセージを!
島 農業に興味があるなら、現場に飛び込んでみろ!実際の農業にはやることがいっぱいあって、楽しい部分が1だったら、苦しい部分が9。それでも根気強くやることができるなら、きっと君は農業を職業にできるぞ。だから、苦しさを分かち合える仲間が大切なんだ。
(福岡県農業大学校校長)
平山さくら(朝倉市:普及指導員)
/「自分を信じて挑戦し続け、夢かなう!」
当農業大学校の養成科:総合コースは、農業指導員を養成するために設けられたコースで、九州各県の農大の中では唯一福岡県だけにあります。
平山さんは、その農業指導員を目指して入学してきました。小さい頃、青年海外協力隊の魅力に触れ、いつかは農業指導員になるぞ!と心に決めたといいます。そして、平成19年度に総合コースを卒業し、地元のJAで普通作(米麦など)の営農指導員になりました。しかし、そのJAでは初めての女性の営農指導員ということもあり、農家の中には「なんで、女が来るとか!」と怒られたこともあったとか・・。それでもめげずに足しげく現場に出て、農家の信頼を得ながら3年間勤めました。しかし、現場で幅広く活躍している県の普及指導員にあこがれて、農大のときにお世話になっていた農林業総合試験場で臨時職員をしながら、県の農業職を目指すことになります。しかし、世の中そうそう思い通りにはなりません。苦節3年。努力の甲斐あって、平成26年に福岡県農業職Ⅰ類
に合格し、現在、朝倉普及指導センターで野菜担当の普及指導員として日夜頑張っています。
―卒業して7年後に晴れて普及指導員に!よくがんばれたねえ・・
平 実はJAの営農指導員になった時には、県の普及指導員になろうとは思っていなかったし、試験も難しいのでなれるとも思っていませんでした。
―それがなぜ普及指導員を目指すことに?
平 JAの職員として、現場で一緒に普及指導員さんと仕事をする機会も多かったのですが、その幅広い知識や指導のやり方などワンランク上だな、あんな仕事がしてみたいな・・と思い始めたんです。
―それで、県職を受験し直した・・
平 JAをやめて、次の年(平成24年)に農業職Ⅱ類を受験しましたが、だめでした。試験を甘く見ていたんです。それで、気合を入れなおしました。
―でも、Ⅱ類は年齢が25歳まででしょ。年齢制限に引っかかるじゃない!
平 そうなんです。だから、Ⅰ類(大卒相当)を目指すしかなくなったんです。それで、農業総合試験場の臨時職員やバイトをしながら、公務員専門学校(夜間コース)にも通い、毎日8時間は勉強するようにしました。農業高校を出て、農大しか出ていないので・・なんて弱音を吐いてるわけにはいきません。必死でした。大卒の皆さんとの競争でしたから。
―おお、それでⅠ類の受験を始めて2年目に合格したんだ
平 はい。周りの人たちからは、「無理だからやめとけ」といわれていたのですが、必死の努力が報われました。とってもうれしかったです!
―ところで、農大での思い出は?
平 やっぱり、2年生になって派遣された試験場研修ですね。私は農産部で、裸麦の研究だったのですが、試験の組み立て方や論文の書き方まで丁寧に指導していただきました。試験場の先生方からは本当にかわいがっていただきました。それと農大秋まつり。当時は2日間もやっていたので、大変でした。
―で、今は普及指導員になって4年目。どうですか、あこがれの立場になって・・
平 野菜の担当になったのですが、品目や病気の種類は多いし、農薬も使い方が難しいし、覚えるのが大変です。でも、朝倉地域は農大の卒業生が多く、「そうか、農大の卒業生か!」といろんな場面で助けていただいています。とてもありがたいのですが、それに甘えないでしっかり一人前になるよう日々勉強です。
―普及指導員になって、気を付けてるところは?
平 わからなくても、とりあえず現場に行く。そして、調べてすぐに農家に返す。その繰り返しで技術力をつけるよう努力しています。それと、JAの3年間の経験の中で、農家にできるだけわかりやすく説明できることが大事なことだと感じていたので、資料づくりなどはわかりやすさを売りにしています!
―では、農業指導員を目指す農大生にメッセージを!
平 何事も無理と思ったら、絶対無理!学歴で卑屈になるな!自分が自分を信じてやりきることが一番大事!夢はかなうから、夢なんだ。あきらめたら、空しいぞ。がんばれ!!
(福岡県農業大学校校長)
川村友里(福岡市:JA営農指導員)
/「喜びも厳しさも農家とともに・・」
平成15年度までは、農業大学校は「農業自営科」と「農業指導科」の2科があり、前者は農家の子弟でないと入学できませんでした。今でこそ、農業法人が増え、雇用就農の道が大きく開けてきたため、非農家でも入学できるようになりましたが、当時は非農家で農業に関わりたいと思えば、農業指導科に入って農業指導者を目指すしかありませんでした。
その体制の最後の年である平成15年度に卒業した川村さんは、元々は東京生まれの東京育ち。東京で農業関係の高校に進み、大学は東京から外に出て農業を学びたいと考えていました。高校では畜産を専攻していたので、北海道という選択肢もありましたが、母の故郷である福岡県なら母も安心・・ということで当農業大学校へ入学したとのことでした。そして、卒業後はJA福岡市に就職。現在は、福岡市西区にある西グリーンセンターで営農指導員として活躍しています。
―JAに入ってからすぐに営農指導員に?
川 いえ、最初の2年は本所で営農関係の事務をしていました。3年目に営農指導員として、ここ西グリーンセンターに配属されました。
―福岡市といえども、ここ西区は農業の盛んなところ。最初は苦労したんじゃない?
川 はい。年配の農家の人を前に、何を話していいものか・・とにかく知識もないし、経験もない!それに、言葉もよくわからない!
―え、言葉も?福岡市だから、わりと標準語に近いと思ったけど。
川 特に年配の方たちは、いわゆる糸島弁をベラベラッと話すのが速くて、慣れるまでいつも「??」と聞き返す毎日でした。それでも、なんとか皆さんとの距離を近くするために、必死に糸島弁をマスターしました。
―担当する作物は?
川 最初は軟弱野菜。それからイチゴの「あまおう」を担当して、今はトマトを担当しています。ここには、古くから礫耕トマトの団地があって、後継者もたくさん残っている産地として、経営も安定していました。
―でも今は大変だろ?最近はトマトが安くて・・
川 そうなんですよ。トマト農家の個々の技術が上がり、収量も伸びているのもあるのですが、価格が安定して儲かる作物は誰もが作り出すので、当然トマトが余りだしますよね。特に、企業が大きな団地を作って、まるで工業製品みたいに作り出してきましたから。
―やっぱり。じゃあ、どの農家も経営が厳しんじゃないの?
川 厳しいですね。とにかく、単価安が続いているので、今までと同じ収益を上げようと思えば、収量を増やすか、コストを下げるかしかないんです。それがなかなかすぐにはできない。とりあえず、それぞれの農家の経営内容を見ながら、一緒に対策を考えているところです。なんとかしてやりたいけど、なかなか・・
―そんな中でも、営農指導員をやっててよかったと思う瞬間はあるでしょ。
川 冗談かもしれませんが、「あんたば頼りにしとるもんね」とか言われるとうれしいですね。でもまだまだ実力をつけないといけません。生産も販売もどちらにも強くならないと・・。今になって思うんです。農大のときに、もっと真剣に勉強しておけばと。
―いやいや、今は農家が目の前にいるから、やらないといけないことが見える。それがないと、なかなか勉強に身が入らないもの。農家の人たちからいい勉強をさせてもらってるね。
川 はい。怒られることもたくさんあったけど、今は育ててもらったなって、感謝しています。
―では、農業や農業指導者を目指す若者にメッセージを!
川 農業は、結局は人なんです。人とのつながりを大切にすることが一番じゃないかな。わからないときに、話を聞くことができる人をどれだけ持っているか・・いろんな経験こそが財産ですから。
(福岡県農業大学校校長)